2023/07/08
榎本武揚を描いた佐々木譲さんの「武揚伝」(記事はこちら)
に続き、同時代に活躍した長州人、大村益次郎を描いた司馬遼太郎さんの「花神」を読みました。榎本が旧幕府軍なので、敵役の総大将だった人です。
大村益次郎についても、私はあまり知識はなく、戊辰戦争の官軍側の大将で、近代日本陸軍の礎を作った人、という程度の知識しかありませんでしたが、この「花神」を呼んで、「この時代にこんな人がいたのか」と鮮烈な印象を持ちました。
「花神」とは中国語で「花咲爺さん」のことです。日本に明治維新という花を咲かせる人として、大村を描きたかったようです。
司馬さんは大村を一貫した合理主義者、技術者として描いています。実際に、大村という人が幕末史に登場したのは晩年のほんの数年間のみで、その人生の大半は蘭学者としてのものです。それが時勢が彼を官軍の総大将に押し上げたのですから、本当に人の一生などというのはわからないものです。
合理主義者といっても、性格的にもかなり変わっていたようで、村医者時代に村人から「きょうは暑いですね」といわれて、「夏は暑いものである」と答えたという挿話があります。人間関係を円滑にする世間話ができないような人という意味ですが、司馬さんは決して貶める文脈ではなく、大村の持つ人間味を表す意味でこうした挿話を使っているように感じました。
基本的に政治には興味がなく、学問、技術にまい進していた大村ですが、緒方洪庵の「敵塾」で塾頭を務めるほど優秀だっただけに、桂小五郎(後の木戸孝允)の目に留まり、長州藩お抱えとなります。村医者という武士身分ではなかったので、それまでの待遇よりかなり下がる長州藩お抱えになった理由を、司馬さんは出生地の長州藩へのナショナリズムだと言います。また、外国の学問を究めながら、大村個人は外国嫌いの攘夷家であり、蘭学者である福沢諭吉から軽蔑されたりもします。
ひたすら勉学の徒であり、晩酌のつまみは豆腐というつつましい大村が、幕府と長州軍との戦いで石州口の戦いに大勝利を収めるあたりから、この人の技術に裏打ちされた作戦指揮の見事さがことごとく成功し、ついには新政府軍の大将格まで上り詰めます。当時最強だった薩摩の西郷隆盛でさえも、大村さんに任せておけばいいと、その能力を認めていたのです。しかし司馬さんによると、大村は西郷のことを大した存在とは思っていなかったようで、その辺りの対比は面白かったです。
突き詰めると、大村がその晩年にしたかったことは革命を成就させ、平民による軍隊を作ることでした。明治維新は成し遂げられますが、上野彰義隊攻めを巡って、ことごとく意見が対立した海江田信義が黒幕の刺客の手によって明治2年に京都で暗殺されます。この海江田黒幕説は当時も噂になったようで、司馬さんもほぼ断定的に書いていますが、いろいろ調べると確たる証拠はないようです。
大村自身、政治には興味がなかった人なので、桂らの強力な推しがなければ、一人の蘭学者・医者として一生を終えていた人かもしれません。桂との出会いが幕末史を大きく転回させたといえるでしょう。
この「花神」で通奏低音のように登場するのが、シーボルトの娘、イネとのエピソードです。イネは大村を学問の師と崇め、恋愛対象ともなっていたようですが、大村はあくまでもシーボルトの娘として扱おうとします。また、長州にずっと残したままの妻との関係は生涯うまくいかなかったそうです。こうした人間的な不器用なところもまた、大村という人の個性なのでしょう。
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