モーツァルト(1756~1791年)の「レクイエム ニ短調 K.626」は、絶筆となった未完の作品で、ヴェルディ、フォーレと並ぶ「3大レクイエム」の一つに数えられています。
晩年のモーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い、経済的に苦しかったです。亡くなる年の秋ごろには体調も悪くなりました。そうしたときに、彼は死の世界からの依頼で自らのレクイエム(鎮魂曲)を書いているという噂が流れ、近年までまことしやかに信じられていました。
しかし、実際は、フランツ・フォン・ヴァルゼックという伯爵が、1791年の7月に、灰色の服を着た使者をモーツァルトの元へ派遣し、高額の報酬を払い、レクイエムの作曲を依頼したことが、1964年になってわかりました。伯爵はアマチュア音楽家で、有名作曲家に依頼して書かせた作品を自分名義で発表することを繰り返していたのです。その年に亡くなった妻のために、モーツァルトにレクイエムの作曲を依頼したとされています。
モーツァルトは、依頼を受け、9月に歌劇「魔笛」の初演を終えると、すぐにレクイエムの作曲に取り掛かります。その間にも体調はどんどん悪化し、病床に伏せるようになりました。そして1791年12月5日に他界してしまします。その間に作曲は続けられましたが、結局、「ラクリモサ」(涙の日)の8小節までしか書けませんでした。
弟子のジュスマイヤーの手で補筆が完成しました。今日では一般にこの「ジュスマイヤー版」による演奏が多いです。そのほかには、「モーンダー版」や「バイヤー版」などがありますが、今回ご紹介するシュライヤーは「バイヤー版」を使用しています。ドイツの音楽学者、フランツ・バイヤーによるもので、ジュスマイヤー版のオーケストレーション、合唱部分を現代の知見で洗い直したものですが、聴いていて大きな違和感がある部分はないと思います。
ご紹介したいのは、名テノール歌手、ペーター・シュライヤーがシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)を指揮したフィリップス録音です。1982年の録音です。
ソリストは、マーガレット・プライス(ソプラノ)、トゥルデーゼ・シュミット(メゾ・ソプラノ)、フランシスコ・アライサ(テノール)、テオ・アダム(バス)。合唱は、ライプツィヒ放送合唱団です。
モーツァルトのレクイエム、「モツレク」といえば、ベーム、カラヤン、ワルター、古楽器のアーノンクール、ホグウッドなど錚々たる名盤が多い曲ですが、このシュライアー盤は、まず録音が抜群に素晴らしいです。お馴染みのルカ協会での録音で、フィリップスらしい自然で、音場の広がりを感じさせる録音です。そして、ドレスデンのオーケストラの「いぶし銀」と称される、ぬくもりのある、かつ精緻な演奏もとても魅力的です。
そして、合唱がまた素晴らしいです。私はラテン語の発音はよくわかりませんが、とても活舌が良く、各パートがはっきり聴こえるような気がします。独唱も当時の一流の人ばかりで、とてもよくまとまっているように思います。
シュライアーの指揮は、作品をそのまま語らせる、という自然体なもの。特段目新しい解釈はありませんが、すべてがあるべき場所に収まって、過不足がないという感じです。オケ、合唱が磨き抜かれているので、素材自体を味わうだけで十分に満足する、そんな演奏です。
したがって、「ディエス・イレ(怒りの日)」のような激しい曲でも、よくありがちな絶叫型ではなく、あくまでもバランスが整えられていて格調が高いです。絶筆となった「ラクリモサ」も抑えた運びの中から哀しみが盛り上がっていきます。バイヤーの補筆部分は、ジュスマイヤー版同様、どうしても感動が薄くなるのは、仕方がないですね。
きめ細やかで端正。格調の高い名盤だと思います。
なお、私が持っているのは、タワーレコードの「ヴィンテージ・コレクション」の1枚で、「レクイエム」のほかに、「戴冠式ミサ」と「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が収録されていて、お得な1枚です。