きょうは接待で 銀座の蕎麦屋「田中屋」さん。蕎麦もおいしいですが、懐石コースも一つ一つの料理が絶品です。
酔っぱらって帰ると、大体クラシックが聴きたくなります。きょうはアーノンクール(慣例上、こう表記しますが、世界的にはハルノンクールまたはハルノンクールト、アーノンコートらしいです)指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのモーツァルト、後期3大交響曲集(交響曲第39、40、41番「ジュピター」)のCDを取り出しました。
アーノンクールのモーツァルトといえば、世評が高いのはヨーロッパ室内管弦楽団のものですが、私はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現在のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団→ええい、ややこしい)のテルデック盤で刷り込まれた世代です。
あのテルデックのモーツァルトを初めて聴いたときは衝撃的で、今でも忘れられません。それまでベーム、ワルターのモーツァルトに馴染んでいた者として、当時は異端視されていたのがアーノンクールでした。ベームが名指しで批判したり、我が国では大御所評論家の故・大木正興氏や故・宇野功芳氏が批判的だったりして、私も最初、40番が収録されていたテルデックのLPレコードを「ジャケットがかっこいい」という理由で買ったものの、内容は期待していませんでした。
ところが、40番を聴いて、まさに「目から鱗が落ちる」思いがしました。とにかく何もかもが衝撃的。デユナーミック、アゴーギク、アーティキュレーション…、すべてにおいて個性的でした。奇をてらう感じではなくて、何か確信犯的な印象を受けました。それもそのはず、アーノンクールは筋金入りの破壊者だったを知ったのは、少し後にブランデンブルク協奏曲やカンタータなど一連のバッハを聴いたときでした。
「過去の権威を否定する」ことにアイデンティティを見出していた人だと思っています。否定のための否定ではなく、いつでもどこかにキラリとひらめく部分があったのが、彼の芸術家としての核だったのではないでしょうか。
とにかく40番を聴くときはアーノンクール、コンセルトヘボウだったのですが、何年か前にウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの後期3大交響曲が出ると知ったときは狂喜しました。
タワーレコードで予約して買って、聴いてみて嬉しくなりました。「これこれ、アーノンクールのモーツァルトはこうでなくっちゃ」と。私にとっての白眉はやはり40番でした。
第1楽章、ふつうに始まりますが、すぐにアーノンクール節が顔を出します。アーティキュレーションが独特過ぎます。オケもヘボウほど上手くありませんが、オリジナル楽器の古雅な音色がむしろアーノンクールの意図にふさわしいと思います。
第2楽章はまるでワルツのようにたゆたいます。第3楽章は怒りのメヌエット主部と優雅なトリオの対比がすごい。
そして何よりも驚くのはフィナーレ(第4楽章)の表現です。提示部繰り返しのあと展開部に入る経過部、まるで昏い深い淵を覗き込むかのような間の取り方!ヘボウのときものけぞりましたが、新盤もそれを上回る深さ!「言葉を失う」とはこういう瞬間を言うのでしょうね。
先ほど、まさにこの箇所を聴きました。こういうのを聴いてしまうと、明日からまた日常生活に戻れるか、不安になります。
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