佐伯一麦(さえき・かずみ)さんの名前は知っていましたが、著書を読んだのは初めてでした。この「渡良瀬」は、1人の労働者の北関東の工場での仕事と家族や同僚との関係を、克明に書いたもので、私小説あるいはプロレタリアート文学という枠になるのでしょうか。私はこのジャンルの本には疎いのですが、素直に面白い小説として大変読み応えがありました。
佐伯一麦さんは1959年、仙台市生まれ。ウィキペディアによれば、筆名の一麦は、敬愛するゴッホが麦畑を好んで描いたことにちなんでいるそうです。
仙台市の高校卒業後、上京して週刊誌記者や電気工などの職業を経験しました。1980年代末からしばらくは茨城県古河市の配電盤工場に勤務した経験もあるそうです。
この「渡良瀬」の舞台がまさに古河市で、主人公の南條拓が勤めているのも配電盤工場です。ですから私小説といっていいと思います。
古河市といえば、前にネーブルパークの記事を投稿しましたが、我が家からも比較的近く、北関東ののどかな田舎町という印象しかなかったのですが、主人公が渡良瀬遊水地を探検するくだりでは足尾銅山事件の挿話もあり、自分が知らない歴史があるのだと感じました。
主人公の拓が勤める配電盤工場は、古河市と下妻市の中間くらいにあるようです。この辺りもなんとなく土地勘があるのですが、工場がたくさんあったり、東北新幹線の古河駅の計画があり、ホテルの建設(途中で頓挫する)があったりとか、知らない話がいろいろ出てきて、興味深かったです。
舞台は昭和の末、昭和天皇がご病気になり、テレビで毎日ご容態が流れる様子が、しばしば文中に登場します。そして崩御される直後までの数ヶ月間の主人公の生活や考え方が描かれます。
主人公の拓は、東京の電気工事店で働いていましたが、自身のアスベストによる病気や長男の難病、長女の心の病などをきっかけに、空気の良いところに引っ越すことを決め、たまたま訪れた古河市に居を構えます。仕事も、配電盤工場団地の中の下請けの配電盤製作工場に就職が決まります。
拓は、小説も書くという設定で、長女の心の病(トラウマが原因でしゃべれなくなる)の原因を自分が作ったという理由で妻との関係は良くありません。
この「渡良瀬」という小説の最大の特徴は、配電盤製作の様子が詳細に書かれていることでしょう。簡単に言うと、箱に電線を配線していくのですが、職人によって「一本張り」や「盤外配線」などの技があり、先輩たちの技を拓が盗みながら、だんだんと腕を上げていくのです。
同僚たちとの就業後の酒盛り、パチンコとクルマに明け暮れる若者たちなどの生態も克明に描かれていて、当時の地方の生活ぶりがうかがえる書物にもなっています。同僚の一人が缶コーヒーの「炭焼き」が好きだというエピソードも、「そういえば昔炭焼きコーヒーってあったな」などと懐かしく感じました。
良い同僚に恵まれ、仕事も順調に成長していく主人公の拓。家族関係も、完全に良くなるところまでは行きませんでしたが、最後のほうで、長女がしゃべれるようになったり、妻も少しずつ心を開いていくようすが描かれ、ラストの渡良瀬遊水地の野焼きの場面では、雲間から光が差すような明るさを感じさせて、長い小説は終わります。
私小説というと、どことなく退屈なイメージを勝手に持っていましたが、この佐伯一麦さんの「渡良瀬」は飽きることなく、最後まで面白く読めました。やはり実体験に基づいた圧倒的なリアリティーと、人間性への基本的な信頼感、働くことに対する熱意といったものを感じさせてくれるからではないでしょうか。
私にとってふだん何気なく訪れている北関東の地域が、より身近に感じられることにもなった小説でした。
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